「のれんに腕押し」に満足できるか?─アートと暴力と分断について─
(VOSTOK No.002 暴力, pp.250-253, 2019年)
あいちトリエンナーレ2019の企画のひとつ「表現の不自由展・その後」に出品された作品をめぐって、実行委員会に多数の抗議や批判、そして脅迫が寄せられ、展示開始からわずか3日で中止になったのはみなさんのご記憶にも新しいと思います。この問題をめぐって、国会議員や市長による検閲めいた発言やそれを批判する愛知県知事の会見、同市長がそれを批判するなど、あらゆるレベルでの分断が悪い意味で鮮やかになりました。知事と市長の批判の応酬は、馬の耳に念仏バトルのようで、見ているこっちが歯がゆいほど。どうしてこんなに通じないのか。分断は、思ったよりも深そうです。
この分断が引き起こした脅迫や、「これがいいならこれはどうだ!」式の議論を見ると、「のれんに腕押し」に我慢できない社会になってしまったという恐ろしさを感じます。「ぬかに釘」でも「馬の耳に念仏」でも我慢できず、自分の主張が相手に届き、その主張によって相手が言動を改めるまで徹底的に叫び続け、無視されれば、肩透かし感にブチ切れる。のれんに火をつけ、ぬかの入った壺を割り(今どきプラスチック製?)、馬の耳に念仏を唱える前にとりあえずムチ打つみたいな暴力がアート作品に対して行われ、達成されてしまったことはとても残念なことでした。
しかし、今回の件を通じて明らかになったのは、政治的な主義・主張の分断だけではありません。アートをめぐる分断もまた、悪い意味で鮮やかになりました。わたしは、美術関係者・アーティスト・普段から現代アートに慣れ親しむ観客/そうではないひとたちの間の溝を、はっきりと意識せざるを得ませんでした。
「暴力について」のアート
あいちトリエンナーレが直面したのは、脅迫という暴力でしたが、現代アートの作品には、人間の暴力性を可視化し、鑑賞者を暴力と対峙させる表現も少なくありません。
パフォーマンス・アーティストのマリーナ・アブラモヴィッチの1974年の作品《Rhythm 0 (リズム0)》は、人間の潜在的な暴力性を暴露した作品です。本作では、「テーブルの上に72個の物体があります。鑑賞者は望むままに私の体の上でそれを使うことができます。私は物体/対象(object)です。上演中は、私がすべての責任を負います。」というアブラモヴィッチの宣言のもと、6時間に及ぶパフォーマンスが行われました。このパフォーマンスについてはアブラモヴィッチ自身がTEDのプレゼンテーションで詳細にその状況を説明しています。
はじめのうち、観客は、アブラモヴィッチに水を上げたり薔薇を渡したりしていましたが、やがてテーブルの上のアイテムを彼女に暴力を振るうために使用するようになったそう。はさみで服を切り裂き、カミソリで切りつけ、薔薇のとげを刺したのです。「ぬかに釘」ならぬ、「直に釘」って感じ。もろに腕押し。痛いに決まっています。ついには1発の弾丸が込められたピストルを彼女に向ける者もあらわれ、止めに入った観客同士の口論まではじまったといいます。6時間を経てパフォーマンスが終わり、彼女が観客に向かって歩きはじめたとき、ついさきほどまで暴力行為に及んでいた彼らは怯えて逃げ出したのだそうです。
アートは、なんらかの問や事がらを指し示すものですが、この作品では指し示すに留まらず、人間の暴力性を実証するところにまで至ったという点で、伝説的な作品となりました。
そしてこのパフォーマンスが実証したのは、個人が犯した罪について、責任をとる必要がなければ、人は暴力に加担するということ。これは考えてみれば世界各地の歴史が証明してきたことでもあり、何度でも見つめ直していかなければいけない人間の確かにある一面です。
このパフォーマンス中にアブラモヴィッチに暴力を振るったひとたちは、「のれんに腕押し」の肩透かし感にブチギレたのだろうと思います。どうにかしてこのアーティストからなんらかの「反応」を引き出さずには満足できない。「痛めつけたらこの人はどうなるかな?」欲求不満が解消されない状態は、想像力を欠如させ、わたしたちを暴力に加担させる可能性が極めて高いのです。痛いに決まってるでしょ。
アートの構造がもつ暴力
アートは、このように暴力を暴いてきましたが、アートの業界のなかにも暴力はあります。昨年、荒木経惟や、海外ではテリー・リチャードソンらがモデルを性的に搾取する行為が、#Me too運動において告発されました。音楽のシーンでも、R・ケリーが性暴力で告発されています。このような、表現のシーンをめぐる暴力には、ハラスメントという言葉で片付けられない犯罪行為もあります。これは脅迫と同様、断じて許されるものではありません。表現の自由や作家としてのスタイルを隠れ蓑にして、誰かが搾取されるのは本当にうんざり。しかし、アートに関わる人間がアートの名のもとに暴力を振るう権力構造は、残念ながら業界に深く根をはっています。これは、克服しなければいけないアートにおける暴力の問題です。
不快な思いをさせる「暴力的な」アート
また、アートのなかには、内容があまりにも暴力的過ぎて見るに耐えないという表現もあります。先のアブラモヴィッチの作品についても、そう感じる人がいるかもしれません。直接的な暴力を見せる露悪的な作品は、鑑賞者に拒否感を植え付けることもありますが、ショック療法のように、鑑賞者になんらかの強い印象を残すし、俗っぽいけどバズることもしばしば。ドーピングのように作品の印象をかさ増しする場合もありますが、一方で暴力的な要素が不可欠な作品というのもあります。
たとえばポップ・アートの代表的アーティストであるアンディー・ウォーホルは、マリリン・モンローや毛沢東のポートレート、キャンベルのスープ缶などのポップでキュートな絵画で知られていますが、《死の惨劇》というシリーズでは、交通事故などの報道写真に色をつけて反復させた作品を発表しています。これらの報道写真には明らかにすでに亡くなっている事故の被害者が写り込んでいる場合がほとんどで、偶然に混じってしまったという類のものではありません。それぞれの写真はまさに「死の惨劇」をダイレクトに伝えていて、目を覆いたくなるような光景です。しかしウォーホルはこうした惨状を、報道を通して見ることになれてしまった大衆に対して、それを反復させて再び提示します。この反復によって、目をそむけたくなるような光景もそのむごさが薄められ、大衆自らに「他者の死」への鈍感さを改めて見つめ直させるのです。
最近、SNS上で、刺されて血だらけの男性と刺した女性が彼女も血だらけのままタバコを吸いつつ電話をかけている様子を撮った写真が拡散していた現代の日本社会にも、この作品の問いかけは効いてくる気がします。
ところで、「表現の不自由展・その後」展に対する批判のなかにも「表現の自由」にだって限度はあるという意見がありました。昭和天皇の写真を焼いた(ように見える)作品や、「慰安婦」像を模した像を展示することは、「反日的」で「国民感情を傷つける」ので、表現の名のもとに許されてはならない、というものです。加えて、市民の血税による企画なのだから、政治的に偏った主張を持つ作品や、日本人の感情を傷つける作品は展示するべきではないという意見もありました。
税金とアートの問題はさておき、肖像画を焼くという行為は、それが誰のものであれ暴力的な行為といえるかもしれません。自分の写真が悪意を持って焼かれたらやっぱり嫌だよね。あるいは、自分が信仰の対象とするものの肖像画なり偶像を焼かれることも、心が痛むことでしょう。かつての国の象徴あるいは国家元首を信仰の対象にするという振る舞いには疑問がありますが、肖像を傷つける表現に反発があることは理解できます。これも人に不快な思いをさせる「暴力的な」アートに当たる可能性はあるでしょう。
現代アートという経験
一方、「表現の不自由展、その後」において特に問題となった《平和の少女像》は、(もう見られないから、映像や写真で通して見ることしかできないのですが)あの像自体は、目をそむけたくなる暴力性を備えてはいません。あるいは、モネを見たときの「きれい!」とか、ミケランジェロを見たときの「スゴイ!」などといった感動もない。椅子に座った少女の衣装が韓国の民族衣装であるから韓国人の少女であることはわかるけど超絶リアル!とか精巧な出来!とか逆にデフォルメがすごい!というわけでもなく、特筆すべき点がない素朴な作品です。
そう、見た目は。
この作品が激烈な反応を呼び起こし、アート作品としての意義を持つのは、この少女像が持つ文脈、ただただ、文脈によるもの。この作品については、とにかくその政治性をガッツリ背負った経緯をこそ、わたしたちは見ているのです。
整った造形や塗り方の特長、実物との類似性といった、いわゆるみんなが安心する物体としてのザ・美術のポイントは一切無視。作家の神がかった手業(てわざ)とかも無視。とにかく文脈です。この文脈を負うからこそ、この素朴な女の子の像は美術館から撤去され、そして再度展覧会の場に戻り、そして批判を浴び、再度展示が中止になる、という波乱万丈の人生を送ることとなったのでした。
こうした《平和の少女像》をめぐるさまざまな反応は、現代アートがどういったものであるかを経験し、体現したひとびとによるものです。多くの場合、現代アートは「説明してもらわないとわかんない」「それが何?」「なんでこんなものが美術館にあるの?」「どうしてこんなものがアートなの?」という混乱を引き起こしてきました。これらは常にアートの文脈ってやつから阻害された鑑賞者が経験する疑問です。ですが、この作品のように前提知識と文脈が共有されてしまっている場合には、そうした疑問がはさみこまれる余地はなくなります。この件においてはさらに批判だけが先行し、実際の作品の経験にまで結びつかないという残念な結果になってしまいました。
この《平和の少女像》は、彼女の横に座り一緒に写真を撮ることができる作品です。それは単なる写真撮影のための経験かもしれませんが、実際に彼女の側に座ることによって、あっちサイド、こっちサイドという境界を超えることができます。分断や怒りや暴力を、悲しくも象徴してしまった彼女が、その分断を埋めるきっかけを作ってくれる。そういう作品だったのではないかと想像します(見れなくなっちゃったんで・・・)。
つまり、「撤去しろ」「中止しろ」という批判が寄せられたのは、みんなが「平和の少女像」をまさに現代アート的に、文脈を通して見ることができていたから、ということになります。
なんだ!日本人にも文脈で作品を見ることができたじゃありませんか!もちろん、皮肉ですけど。
アートをめぐる断絶を乗り越えかた
さて、「表現の自由」はその表現の質や心の安定を保証するものではありません。だから、展覧会やアートイベントに陳列された作品を好きになる必要はないし、厳しくその質を評価されてしかるべきです。ですからあなたが、あなたの気分を害する作品にであったときそれを批判することは、スーパーウェルカムなことなのです。
ただし、作品はいくら批判されても改変されるべきではありません。また、批判に応じて撤去や処分が行われることも本来はないはずです(「表現の不自由」展はそうした作品を集めた展覧会でしたが)。そんなことが普通であれば、すでにこの世界にアートはないでしょう。みんなが大好き!なんてアートはないのですから。
だから、「気分が害された」という批判は、本来解消されるはずのない欲求です。つまり、アートを批判することは常に「のれんに腕押し」感を味わうということかもしれません。
とはいえ、お気持ち先行ではなく、「アート作品を批判する」というのは難しいことです。「そもそも理解できてないのに批判なんかできない」し、「批判の仕方間違えると詳しい人に怒られそう」な気もしちゃいます。
さて、ここでひとつおすすめしたいのが、展覧会を見ながらあえて「一番嫌いな作品」を探すという鑑賞方法です。好きな作品を1つ選ぶように展覧会をまわるというのはよく言われる鑑賞方法でとてもポジティブに作品を見て回ることができ、もちろんよいと思うのですが、わたしのおすすめは嫌いな作品を見つけ、それに対してムカつく理由を考えるというもの。もちろん併用も可。
なぜ嫌いな作品を選ぶのがおすすめかというと、好きな作品の好きな理由って「なんとなく好き」「なんかいいと思った」という、漠然とした感じになりがちですよね。恋愛とかもそうだけど・・・・・・。もちろんなんとなく嫌いになることもあるけど、好きよりも嫌いのほうが、輪郭をはっきりさせやすいと思うのです。それに、「一番嫌い」な作品ですから、無関心ってわけでもありませんよね。「なんかむかつく」の場合はむかつくポイントを具体化すると、自分の好みが逆に見えてきます。その理由となる要素を自分のなかに探していくのです。つまりこれは「嫌い」という感情の前に、一度立ち止まるという手続きです。「嫌い」という気持ちに対して「立ち止まる」経験は、アートをめぐる分断に対しても、政治的・思想的な分断に対しても有効です。
ここまでアートを鑑賞する側の態度について提案してきましたが、アートを提供する側が、「表現の自由」という土台の大切さや、その上に立つそれぞれの表現について、きちんと説明してきたかは疑問です。アーティストや美術の関係者は、むしろ「伝わらない!」という「のれんに腕押し」の肩透かし感を恐れるあまり、話が伝わる仲間うちだけで議論を完結してきてしまった部分が大いにあると思います。勇気がないのは、「表現の自由」を伝えなくてはいけない表現者サイドなのかも。掃き溜めとなり、誰からも理解されなくなったアートが暴力を批判したところで、分断が深まるだけです。そんなアートは嫌だなー。
いまアートを提供するひとにできることは、「のれんに腕押し」を恐れず、懇切丁寧に説明し、伝わるように伝え続けること。そして、アートについて判断し、政治のもとに暮らすわたしたちは、「嫌い」の前に立ち止まり、強い気持ちを持っても暴力に結びつけないことができるはずです。つまり、「のれんに腕押し」に満足すること。アートにかかわる経験はその訓練にもなるはず。そのうちのれんがふわっと開いて、分断が溶けるかもしれません。
アートにできることはまだありそうです。