ヒップホップが流行らない日本の「天才」信仰
わたしがティーンだったころ、オレンジレンジの「ロコローション」という曲 が大ヒットしました。いまだに同世代とカラオケに行けば100%盛り上が り、全員がものまね付きでラップできるほどに浸透した、わたしたちの世代を代表する一曲です。わたしも、中学に入ったばかりのころまではかなりよく聴いていた覚えがあります。ですが、年齢を重ねていくうち、「ミュー ジックステーション」に出ている人たちの音楽を聴くのはダサいみたいな 風潮が高まり、ポップ・ミュージックから自然と離れていったように思いま す。オレンジレンジが雑誌のインタビューに「『パクろうぜ!』が合言葉で す!」と答えたことが、インターネット上で話題になっているのを見たのは 決定的で、大好きだったその曲に強く失望してしまい、わたしの心もすっかり離れていってしまいました。
「ロコローション」という曲をめぐっては、盗作が報じられるなど、手続きに問題があったようですが、一度聴けば、リトル・エヴァの「ロコ・モーション」をリミックスしたのは明らかだと思います。当時のわたしは、「盗作」と「リミックス」の違いを理解できず、ふたつの曲を聴き比べ、めっちゃ似ている! ひどい!こんな不純に生み出されたものは聴けない! ロックこそが最高!純粋な天才を信じたい!と鼻息荒く憤り、わずかな容量しかなかった当時の16GBのiPodには、そのアルバムを入れませんでした(いまでは256GBのiPhoneに入っています)。
さて、改めて「ロコローション」を聴いてみると、「ロコ・モーション」にあった、「一緒に踊りましょう」と誘い合うやや控えめの男女のやりとりや、オー ルディーズのお尻をふって踊りたくなるようなサウンドが一掃され、歪みが効いた重めの「ゴリゴリミュージック」にアレンジされています。同じメロディでもやはり別の曲ですし、同じ「踊ろう」でも、まったく別の踊りになるでしょう。元の曲のキャッチーなメロディがあってのこととは思います が、どちらも生理的に楽しい曲です。「ロコローション」の、「夏のパリピは ビーチで盛ってワンチャン行っちゃおう」的(これも古い気がするけど)な テンションは、「ロコ・モーション」のアップデイトバージョンとして、理解できるバイブスです。
このように、既存の曲にリスペクトを示して(この「ロコローション」はその リスペクトがちょっと足らなかったのかもしれないけど)、リミックスあるい はサンプリングを用いるヒップホップの手法はいまでは一般的になり、差 昨年、世界で最も売れている音楽ジャンルとなりました。
とはいえ、実は、日本はその例外の国。音楽CDやダウンロードの売り上 げをジャンル別で見たときに、他の国とは異なる結果を示しているそうで す。一般的になったように思われるヒップホップの手法は、日本では他の 国ほど浸透していないか、握手券と音楽CDが結びついていることで実 際の「音楽」の売れ行きがわからないというのが現状みたい。こうした状 況について日本の音楽業界はガラパゴス化しているなんて言われるわけ ですが、このガラパゴス現象、音楽だけのことではなく、美術にも見られる ような気がするのです。
いま、「アート」という言葉は軽やかに、日常的に使われています。 バナナの皮に針で絵を刺し描いたところが茶色く変色することで完成す るバナナの皮「アート」、黒板「アート」、つい先日運行を開始した東武東 上線の名所のイラストでラッピングした「アート」トレイン(地元)や、地 域「アート」。昨年の展覧会では最も多い61万人の来場者数を記録した「レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル」(森美術館)は、インスタ 映え「アート」だし、インスタでしょっちゅう目にするチームラボは映ば えるデ ジタル「アート」です。このように、ワイドショーでも「アート」についてのト ピックはしょっちゅう取り上げられているし、最近ではムンク、怖い絵、若 冲、運慶など、伝統のアートにも人が大挙して押し寄せ、上野はいつも大 行列といった印象です。
ここまで挙げてきた、日本で人気の「アート」の特徴は、目に見えるスゴい 技術・執念・才能に感動できるものか、インスタグラムを通じて自分の経験としてアピールできるものか、地域の復興に関するものの3つ。2つめのインスタグラムを通じた経験のシェアは、いまやアートに限らず、世界を動かす消費行動の原理にもなっているので、日本のガラパゴス的状況と いうよりは、世界の文化的傾向です。また、3つめの地域復興系アートは世界中で行われ、多くの観光客を集めています。では、日本で、ガラパゴス的な流行を示すいま人気の「アート」とはなにか?
そう、日本人が特別に大好きなのは、スゴい技術・執念・才能を見せてく れるアートなのです。もちろん、若冲、運慶をはじめ、日本の美術が持つ技術力の高さは有無を 言わさず圧倒的ですから、それに感動することはもちろんガラパゴス的ではありません。
しかし、どうも、ここ日本では、文脈や前知識がなくとも感動できる「すっげー」アートに人気が偏っているような気がします。つまり、「アート」と いう言葉は、バナナ「アート」や黒板「アート」における「アート」のように技術・執念・才能に感動できる良きものの売り出し文句として使われているようです。
しかし一方で、「現代アート」という言葉はいま、目の前の言語化できない状況を揶揄するために使われる「わけわかんないもの」の代名詞になりつつあります。
確かに、普段の生活の中で出会う「現代アート」という言葉で語られる状況やものは、意味ありげに美術館に鎮座するあの威圧的な物体によく似 ているかもしれません。緻密に描き込まれた若冲の作品や運慶の頑強な 仏像と、ぐちゃぐちゃの大きい絵やつるりとした立方体は、「美術館で見 る物体」という点では共通していますが、それらの見た目も、見たときのわ たしたちの感情も、まったく異なっています。けれども、それらは同じ「アー ト」の類のものだということもわかる。では、置き方を変えた便器や、スー プ缶のパッケージみたいな、「わけわかんないもの」たちが、どんなふうに わたしたちを感動させてくれるというのでしょうか。
ところで、現代アートを鑑賞するときには、「ヒップホップ的」要素が鍵と なる場合があります。それは、「フロウ」や「韻」というラップの技巧ではな く、「サンプリング」や「リミックス」といった「ヒップホップ」のメンタリティ の部分です。すでにあるものを切って、つなげて、まぜて、別のものを作る という手法で、既存の価値観に反抗するロックの精神とは異なり、すでに あるものをリスペクトしつつ、それらを引用して作品を作る心意気。つま り、オレンジレンジの「パクろうぜ!」の精神であり、そこからできあがった ロコローションのようなもの。ただし、ロコローションと異なるのは、「この人に影響をうけました」であるとか、「これこれにこの要素をプラスしまし た」といった手の内を明かすことが求められ、見る側も「誰のなんの要素 が入り込んでいるか?」を考えることを楽しむものでもあります。少なくと も、誰かのなにかを借りることが責められるべきことではないのがこのヒッ プホップというジャンルの自由さかもしれません。
「俺の屍を越えてゆけ」という言葉がありますが、わけわからん現代アートに隠されたヒップホップのメンタリティで言うと、「パイセンの屍『で』越えてくっす!」というスタンスです。現代のロックバンドが実際にロック 精神を体現しているかはさておき、ピュアな反骨精神や衝動を表現して きたロックよりも、「ロコローション」のように借り物によって作られた「不 純」なヒップホップが、現代アートの実態には近いのです(もちろん、これ をお読みの方の中にはわたしよりずっとヒップホップに詳しい方がいらっ しゃると思いますので、ヒップホップの詳しい歴史やメンタリティについて はその方々に講義していただき、わたしも勉強したい!)。このような現代 アートにおけるヒップホップの手法については、美術評論家の椹木野衣さんの著書『シミュレーショニズム』で詳しく書かれています。
だから、現代アートを見るときには、常にサンプリングの出どころを意識し て鑑賞することになる。借り物をどんな手法で、どんな形に生成変化させ たかということを見るとき、その参照元・引用元といった混ぜ物の出どころ を知らないと、混乱させられる羽目になってしまいます。
ですが、参照元・引用元を知っていることで、美術館として意味ありげに 鎮座した、あのわけわかんない物体がとても立体的に、雄弁に話し始めるように感じられることは確かにあるのです。いままでは、3Dメガネをか けないで3Dの映画を見ていたようなものだったのだと。そして、不純かつ退屈に感じられた単なる物体が、重層的な意味を持つ豊かな作品に見えてくるのです。
残念ながらある作品のバックグラウンドを知って楽しむためには、予習か復習が必要かもしれません。美術館にいる間に楽しみたいなら予習がおすすめだし、復習をすれば持って帰ってきた宿題を自分の中で何度でも 楽しむことができます。
日本でいま人気の「アート」の多くは、それがどういった経緯を持ったものであれ、「ロックとして」、つまり、混じりけのない強い意志と才能の結晶として鑑賞されることが多いとわたしは感じます。例えば、いまやロックを通り越してポップ・スターの地位を獲得しているようにも思える草間彌生の日本での需要は、まさに「純粋な創作意欲を命がけで表現する天才」といったところではないでしょうか。彼女の描く水玉は、統合失調症による幻覚や幻聴の恐怖に抗うために描かれていて、映像で創作の様子を見ると、狂気をたたえたその眼光と筆運びの迷いのなさに圧倒されます。有名なかぼちゃの彫刻や、2016年の個展で発表された「わが永遠の魂」が持つ、彼女自身の執念がそのまま形を得たかのようなキュートな不気味さは、「わかる/わからない」の判断を超えて、 感動的かつポップです。彼女の作品は、創作への強い意志が具現化した ものとして多くの人の心を惹きつけています。
さて、このような草間彌生の作品をはじめ、若冲、運慶、ムンク、印象派 ......など大行列の展覧会は、まるで美術館がパワースポットに、作品が信仰の対象になったかのようです。もはや展覧会を見る経験は「鑑賞」よ りも「参拝」に近いのかもしれません。
けれども、実のところ草間彌生はヒップホップ的精神を持ち合わせた「混 ぜ物」的な作品を発表する、現代アートの実践者です。そこには、「自身の 病に打ち克つピュアな創作意欲と残された時間との戦い」といった現在 彼女が背負っている「芸術家像」とはやや異なる実態があります。
例えば彼女の「果てしない網」は、例のぐちゃぐちゃの絵の具で絵画全体が覆われているジャクソン ・ポロックの絵画から、男性的な力強さを除き、繊細さとわずかなゆらぎを加えてアップデートした、まさにヒップホップ的作品です。また、昨年、ニューヨーク・MoMA PS1で再びお目見えした1500個のミラーボールで構成されるインスタレーション「ナル シスの庭」は、1966年に「あなたのナルシズムを販売します」という文句とともにプラスチック製のミラーボールを販売したというものの再現。この作品は、デュシャンが男性用小便器にサインして芸術作品としたのと同様 、既製品に「作品」という称号を与え、ものの見方を一変させる魔法のようなレディ・メイドです。
このように彼女の作品は、既存の芸術からの借り物と彼女の思想を混ぜ 込んでできあがったものなのです。その「混ぜ物」としての特質よりも、「彼女ひとりによる彼女ひとりのための作品」、あるいは、彼女がひとりで身ご もってひとりで生み出した作品として、純粋な天才性に回収されてしまっ ている気がします。これにはリンカーンもびっくりだし、聖母キャラの押し 付けなんて、さすがの草間彌生もマジ勘弁ではないでしょうか。
卓越した技術力、圧倒的な執念、強烈な創作意欲などといった一握りの人しか持ちえない才能は、それ自体希少で価値があるものです。そうした 才能を得た人々を、わたしたちは天才と呼んで称賛します。 そして、美術館はそういう天才の作り出したものに出会う殿堂です。美術 館へ足を運ぶ人々の多くは、同じ人間でありながら、優れた力を天から授 けられた偉大な存在としてアーティストを信奉し、聖遺物的な作品を拝 みにいくといっても過言ではないでしょう。そしてその場合、「拝む」ことが ミッションですから、「理解」「鑑賞」は二の次。大行列も仕方ない!もちろ ん面倒な予習や復習も必要ないんです! このような「天才信仰系」アートが、日本の「アート」人気を支え、強く人を引き寄せています。
もちろん、このアート人気も天才信仰も「悪」ではありませんし、全員が信仰のために美術館に行っているのではないでしょう。芸術を見る経験にルールを敷くことこそ無益だし、わたしも普通に行列並ぶし、モナ・リザは「ありがたい」ものです。
だけど、ヒップホップが流行らない日本で特定の信仰を持たない人々が、「アート」を通して日替わりの「天才」を信仰している、この状況は、ゆるやかな反知性であると感じます。これが、美術館や展覧会が目指すものなのでしょうか。この状況では「芸術は、いわば『早期危険発生装置』である」というマーシャル・マクルーハンの言葉は無効かもしれません。現代は、天賦の才を持った偉大な存在だけがスーパースターになれる 時代ではありません。既存の才を盗み、上手に混ぜ合わせれば、本当の意味で誰でも輝くことができる。自分ひとりで身ごもって自分ひとりでお産なんてことをしなくたっていいし、先輩たちの知恵と成果を無遠慮に食 らって、自分の努力と工夫とアイデアを混ぜ込んで消化することで純粋 な天才性を凌駕する作品を生み出せる時代となりました。わたしたちは、それらを混ぜるテクノロジーも、混ぜ物をさがす宇宙も、いつも片手やポ ケットに持っています。好きなもの「だけ」を見て、好きな「ひと」だけをフォ ローし、偏った情報世界を作り上げてしまうという暗い傾向がインター ネットの未来に新たな影を落としていても、盗み、真似て、混ぜる能力が、 わたしたちをスーパースターにしてくれるかもしれないということは、この時代のハッピーな側面です。
このヒップホップが流行らない国・日本でいま、不純さの豊かさを認めることが、「わけわからん」という断絶のベールを溶かしてくれるのではないでしょうか。
村上由鶴
(『VOSTOK 001 特集:POST-FAKE』2019年、p. 152-155)